雨車 その名の由来
遥か昔から、中組が「先車」を努める年の祭礼は、雨天となることが多かったことに因み「雨車」と命名されたと伝えられています。祭礼が雨天となることは残念ですが、雨車が先車の年には生活に欠かせない「水」に困らないという謂れがあります。
また名の由来と共に語り継がれているものがあります。それは雨車の壇箱に描かれてている彩色画「龍神」と「波濤図」で、普段は蓋で覆い隠され封印されています。この蓋を外すと「雨を呼ぶ」とされており、祭礼当日が晴天であっても蓋を外すことを忌み嫌う声を耳にします。実際、天候に不安がある祭礼時は私たち中組でも封印を解かず山車の運行を行います。(写真の雨車は壇箱の絵が封印された状態です)
封印される絵、雨車を飾る彫刻は「水」と密接に関わるものが多いことから、建造当時にこの山車に託した人々の思いや、込められた意味、願いがその名の謂れの通り「水を呼ぶ」、「雨を降らせる」のかもしれません。
知多市指定文化財「雨車」
雨車は文化十一年(1814年)に中組により新規で建造され、その後天保十年に改造を受けた以降、姿を変えることなく現在に至ります。
雨車の特徴は岡田の山車全てに共通しますが、知多半島に多く存在する「知多型」と名古屋市内に多く存在する「名古屋型」の中間的で、より古い構造を伝えていることにあります。山車全体を漆と彩色でまとめ、彫刻は彫刻同士が干渉することなく各題材が最も見栄えするよう最適な位置に配し、車輪は名古屋型のように台輪の外側に持ち、これを格子が覆います。また、知多型の特徴である前台は脇障子を装備せず、前台壇箱上の4本柱の間隔を広く配置させたことにより、木偶(三人遣い人形)上演に最適な舞台としての広さを有します。
雨車建造の記録
■壇箱裏右側面
文化十一年
ぬり事/大野高須加□しく
尾州/瀬川治助重定 花押
■壇箱裏正面
大工當所/大工佐右門
木挽小倉邑/和平/乙蔵
尾州名古屋/彫物師瀬川治助重定
■壇箱裏左側面
干時文化十一年龍/甲戊八月吉辰/出来/中組
■柱の刻銘
天保十年/玄六月吉日 造作仕 棟梁/藤田佐右エ門/藤原雅房/□□□師名古屋/平兵衛/箔師名古屋/利八/絵師名古屋/長吉
「知多型」の山車には「壇箱」が存在し、華々しい多種多様な題材の彫刻が数多く存在します。その題材の中には寺社建造物の屋根や棟木を支える力神の彫刻が取り入れられています。この力神彫刻が東海地方の山車彫刻受容の先駆けとなったとされるのが瀬川治助重定作の中組雨車前台壇箱に鎮座する一対の力神であること、そして瀬川治助重定が一台の山車として彫刻全てを請け負い始めて手掛けたのが、この雨車であったことが近年の調査により明らかになりました。
雨車彫刻全体 瀬川治助重定 《 34歳時の作品 》
前山 龍欄間1 火炎龍1 太平鰭「波」2 懸魚「牡丹」1 桁隠「菊」2 木鼻「獅子」「獏」6体 鬼瓦「菊紋」1
壇箱 力神2体 獅子3体 波 岩 牡丹 亀
胴山 志輪「雲」10 高欄「牡丹」20
上山 欄間「波」4 太平束「獏」2 鬼板「五七桐」2 懸魚「牡丹」2
岡田二区中組山車まつり保存会